2019年10月09日

毒ガス撤去のたたかいから今日に

毒ガス撤去のたたかいから今日に
毒ガス撤去のたたかいから今日に
毒ガス撤去のたたかいから今日に
復帰前の沖縄には、核兵器も毒ガスも密かに持ち込まれていました。1969年7月18日アメリカの「ウォール・ストリート・ジャーナル」は同年7月8日、沖縄の米軍基地で毒ガスが漏れる事故が発生したと報じ、この報道から沖縄では毒ガス撤去を求める声が急速に高まり、沖縄の世論と運動に推されて米軍は毒ガスの撤去行うことを発表しました。
 当初米国は、米国本土のワシントン州や、オレゴン州への移送を検討していたものの、ワシントン州知事や市民団体からの受け入れ拒否の様々なアクションの中で太平洋上のジヨンストン島への移送に切り替えたのです。
米軍は、「レットハット作戦」と銘打って、移送が行われました。1971年1月13日の第一次移送から9月9日の第二次移送完了まで、周辺地域住民はもとより沖縄県民が不安の中での生活を余儀なくされました。
知花弾薬庫に貯蔵されていたのは、GBガス(サリン)、VX神経ガスなど、総量1万3千㌧で、わずかでも多数の被害を出しかねない極めて毒性の高い兵器だからです。
 この毒ガスの撤去・移送は、沖縄県民の大きなたたかいがあって初めて実現したのではないでしょうか。当時の行政主席は、屋良朝苗氏でした。
県立公文書館で「毒ガス撤去のたたかい」が展示されています。



Posted by 日本共産党・まえさと保 at 12:06│Comments(0)
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