2014年09月27日

戦争の悲惨さ後世に戦争遺跡の整備ー憲法が生きるまちづくりを 大城カツナガさんで

戦争の悲惨さ後世に戦争遺跡の整備ー憲法が生きるまちづくりを 大城カツナガさんで豊見城市には、いくつかの戦争遺跡が残されている。知られている
のは海軍壕があるが
豊見城城趾の陸軍野戦病院壕、字長堂の従軍慰安所跡、字伊良波の慰安所跡、高安のタングチ(特攻艇)、字与根の与根飛行場跡、字田頭の日本軍捕虜収容所跡などがある。
 ひめゆり学徒は多くの人に知られているが、豊見城城趾あとの中腹にあった陸軍野戦病院で無念の沖縄戦最期を遂げた旧積徳高等女学校同校の生徒49人、職員5人についてはあまり知られていない。
 積徳高女の女生徒たちは、沖縄戦で第24師団第2野戦病院(通称・山3487)に入隊、豊見城城址内に掘られた病院壕に配属された。のちに、米軍の侵攻とともに本島南部の糸満・糸洲地区にある自然壕へ撤退したが、壕が米軍の馬のり攻撃に遭い、言葉に尽くせないほどの体験をしている。
 私立の同校は糸満市に慰霊塔がない。県立校と同様に南部戦線で従軍しながら、看護隊の生き残りの人たちがあまり体験を語らなかったため、その存在が知られていないという。
 遺骨収集ボランティア団体ガマフヤー(具志堅隆松代表)が4月末に沖縄戦時に豊見城城址に掘られた第24師団第2野戦病院壕付近の岩場で、旧日本軍兵士とみられる遺骨を発見したとの記事が地元紙(5月14日付)に掲載された。豊見城から防衛隊として召集され、この壕の付近で消息を絶ったとされる男性の遺骨と見られる。
 豊見城は糸満に次ぐ激戦地と豊見城で亡くなった人は3116人(糸満では7007人)となっている。豊見城に存在する戦争遺跡は、殆どが、放置をされたままとなっている。これを整備して、平和の尊さを後世に残すためにも戦争の悲惨な記録を構成に残すことは行政の責任だ。
 憲法9条が生きる豊見城づくりを大城カツナガさんで。

Posted by 日本共産党・まえさと保 at 14:25│Comments(1)
この記事へのコメント
政府は常に沖縄を防波堤にし続けている。沖縄に住んだことがないないちゃーはこれが、理解出来ない。
普天間の安全勿論大事。でもそのことと辺野古代替は意味が違う。
自立防衛の出発点がここにある。
今後未来に渡っての自主防衛。平和堅持の原点、試金石が、辺野古移設阻止から沖縄外や海外移転の出発点。
沖縄に押し付ける時代は既に終わった。
レジャーランドや平成28年度予算削減?
馬鹿にしているとしか思えない。
沖縄の主権が県の規模の数十倍は、あるということの意味が政府にわかっているのかとの感慨に至ります。
Posted by 伸 at 2015年12月23日 21:46
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